ブッククラブニュース
平成21年5月号新聞一部閲覧 追加分

ヒトの子育てはどうあるべきか!?@若者たちのいま

やはりおかしい・・・


 大学生くらいの若者と話す機会はけっこうあるほうだが、視線を合わせないで話す学生がけっこう多い。高校生とは話すことがほとんどないのでよくわからないが、同じような現象は起きていると思う。さらに二十代の若者と話して一番イライラするのは、決して自分の意見として話さないことである。「〜です。」「〜と思う。」という自分の意見の表現がない。「〜のような」「・・・と、いうこともありか、と・・」と婉曲どころか対話になりえない言葉ばかりが口から出る。まったくないのは主語+述語で、「私は・・・と思う」、「私は・・・と考える」。個性教育が叫ばれて久しいのに一体、この結果はどういうことなのだ。「ああ、偏差値教育の影響は大きい!」「ああ、良い子でいたい風潮は得体の知れぬ人間を作ってしまう。」と嘆きたくなる。つまり、早期教育から始まる学習方法や塾やお稽古事、そして学校の教育の中に「自分を出す表現はまずい!」と思わせる何かがあるような気がする。
 一方で「夢を持って努力をしよう!」という抽象的な希望を投げかけるが、それが現実にはうまくいかないことを子どものほうが知っていて、「前面に出るよりは後ろにいたほうが安全だ!」という結論が出ているのだろう。攻撃その背後には自分自身の忍耐力の不足や責任感の欠如を覆い隠すための曖昧で婉曲な表現をしたくなるのだろう。

ケータイなど・・・


この問題のさらに背後にあるのはケータイだ。若い人は電車の中、駅、公園、デパート・・・どこでもケータイを見つめて指を動かしている。生身の人間と会話することができずに画面の向こうの何者かとコミュニケートすることが日常の行為の大部分である。もちろんケータイばかりではない。コンビニでは一言も口を聞かなくても物が買える。自動販売機もネット通販も同じ・・・対話も働きかけも何もいらない。そういうライフスタイルが若者たちの「会話ができない」、「視線を合わせない」生き方を作っているわけだ。
 メールで本音や心情が語れるかどうかは断定できないが、少なくとも目を見ないで話す(アイ・コンタクト)のは動物としてひじょうに危険な状態だと思う。おそらく、これは「たくさんの人とつながっていたい」という意識の拡大で、実体のない交友関係や人間関係をただ「キープしている」だけのことなのである。つまり、1対多数ばかりを意識していて1対1の関係を認識できない状態なのである。ブログなどはその典型例で、実際には1対数人の訪問者なのだろうが、ブログ製作者は1対多数と思っている。多数を意識すれば、本当の自分はなかなか出せなくなる。つまり、それでは実体が希薄なので、やはり生活感や人間関係感が浮遊してしまって、精神病に陥っていく可能性は高くなるだろう。

電話や挨拶の作法も変るか・・・


 この影響は短時間の間に一般社会にもかなり出てきた。 例えば、みなさんの中にもゆめやに電話してくるときに名前を名乗らないでいきなり本題に入る方がいませんか?
 こちらにナンバーディスプレイはないし、あったところでケータイのように名前の登録はできないから大慌て。でも「・・・・来月の配本と同じ本を知人からもらったのですが、入れ替えてもらえませんか?」と、いきなり来る。こちらは「どちら様でしょうか?」と言うよりない。どこの誰かが分からなければ対応のしようがない。配本表を検索できないし、ファイルも探せない。最近、けっこう多いケースだ。電話には掛け方というものがあるはずなのだが、日ごろのケータイでの習慣はおそろしい。「もしもし、こちらは○○ですが、△△さんですか?」という基本的なルールや礼儀までケータイは奪ってしまったようである。
 さらに、FAXやメールで時候の挨拶など必要はないと思うが、それが残っていたり紋切り型だったり、伝達オンリーだったり、作法は混乱中である。

原因は・・・


 若者が対話ができない原因の多くは(もう平成も20年ですから)幼児期からの必要な経験が蓄積されていないからではないか・・・と思う。生まれてすぐから受身一方のテレビ・ビデオ漬け、少し大きくなると電子ゲームやプリント型学習に漬けられ、相手との交流ができなくなる人間が増えている。これは、若者だけではない。モンスターペアレントを始めとして、かなり一般の大人でも常識の崩壊が起きている。馬鹿バラエティ番組のせいなのか、人気取りのためなら自分の病気や犯罪歴まで使う芸能人たちの非常識に影響されているのか・・・それとも、社会全体が精神病になりつつあるのか分からないが。要するに、社会的な動物であるはずのヒトとしての行動や思考方法が取れない時代になってしまったと思うのだ。そこで、今年度は、そういう人間を作らないヒントとして「ヒトの子育てはどういうものか」を動物の子育てをお手本(?)にして考えていくシリーズにしたいと思う。

学校図書館の問題―@―

1)これまでとこれから・・・


 近隣の会員からも遠方の会員からも年間通して「学校図書館の問題」を指摘する声が聞こえる。大別すると@蔵書の問題A貸し出し競争の問題、B子どもたちの間の流行の問題などである。
 これまで夢新聞では、朝読書や借り出しコンテストなどを批判してきた。その後、学校図書館司書の方々に実情を聞くにつけ、やはり読書推進運動が学校図書館のあり方に大きな影響を与えていることがわかってきた。朝読書や読書量コンテストが始まったのは学級崩壊や少年事件が頻発していたときのことだ。かんたんに言えば生徒を落ち着かせる目的を持つもので、読書の質を高めたり、高度な読書にガイドしていくものではなかった。それは、実行例の内容を見れば一目瞭然である。読む本は自由・・・・漫画でも良いというところさえあった。だいたい制限時間が十分(じゅうぶんではなくジップン)というのも問題だった。まともな本で十分で読める本などない。メディアなどで成果が報道されたが、「なんだかなぁ・・・」という感じである。クラスが落ち着く状態は生まれたかもしれないが、読書が高度化したという話は聞かない。ゆとり教育が見直されて、詰め込みが始まった今、これからの読書の状態はどういう方向に行くのだろうか。読書は個人的な体験・・・管理されてするものではないのだが・・・。
 しかし、どういうわけか読書は楽しむことではなく、読むべきもの、課題として存在するものとなっている。そして、その背景にひとつの不思議な現象がある。これは、以前も今も変らない。読書推進運動をする人々・・・つまり読み聞かせおばさんから始まり、司書や読書ボランティアの人々に共通している現象だ。どういうわけか、彼らは子どもが読書しない原因になっていることに批判も反対もなく、ただ「読め!読め!本を読め!」と言うのである。子どもから読む力を奪っているものは、テレビ、アニメ、キャラクター、戦隊ものから始まってTVゲーム、漫画、ケータイ、PCなど山のようにある。それには何も言わないで、読み聞かせイベントをしたり、貸し出し競争をしたり、・・・・。

2)大人はほんとうに子どもの本について考えているのだろうか


 山梨県の例で申し訳ないが、どこの都道府県も似たりよったりだと思うのでいくつか具体例を出そう。
◎選書を子どもにまかせる?・・・T村の小学校の例だ。蔵書を先生や専門家が選ぶのではなく子どもたちに選書させるということが行われ、それが大きく報道されていた。子どもに任せるという裁量はマスコミ受けするかもしれないが、果たして選ぶ力はあるのだろうか。そこには生徒の数もどんな書籍が選ばれたのかも伝えられていなかった。私は、そこが生徒数が少ない過疎地域の学校だということを知っている。こういう状態での子どもの選書能力には大いに疑問がある。
◎質を測らずに量を測る行政・・・・Y市の教委の調査によると小・中学校の生徒およそ二千人を対象に調査した結果、読書推進活動(多くは学校図書館による貸し出し競争、読書?競争)で、読書量が前年度比1.5倍になったという。月間十冊以上が千二百人以上である。ものすごい成果だ。小学二年生ではなんと月間19.2冊平均で読んでいるという。しかし、この報道も数だけで何を読んだかは記されていない。学校図書館には、おどろくことに赤ちゃん絵本まで置いてある。赤ちゃん絵本なら十分間で十冊読めるだろうし、マンガ日本史なら一ヶ月に20冊どころか50冊でも可能だろう。それが巧妙に子どもの競争心を煽りたてて貸し出した結果でもある。
◎信じられない話も・・・小4の男子を持つ会員から聞いた話で、ほんとうかどうか信じられないのだが、BCの配本にもある「怪人二十面相」を読んでいたら担任の先生から「そんな本より『かいけつゾロリ』のほうがいい」と薦められた、という。この学校は私学だというが、逆に会員のお母さんの言葉を疑いたくなるほど信じられない話である。それほど子どもの本について大人が関心を払っていないのか・・・・それとも、ガイドしていく力がなくなっているのか・・・・
◎いつの時代も子どもは流行をつくるが・・・子どもはいつの時代も流行をつくる。しかし、この三十年間、歴史上かつてなかった遊び道具が子どもたちの間で流行し、進化もしつづけている。ところが、学校も読書推進運動の人々も読書ボランティアの方々も、そして図書館司書の多くも、この流行に目をつぶり、何も言わない。一番、読書を阻害しているこのサブカル関連の遊びに誰も警告や注意を示さないのである。これは、私にとって「なぜ?」である。

3)おそらく・・・

 入学したての子どもたち(その親)、あるいはBC配本で育ってきた子どもたち(その親たち)は学校図書館のやり方、あるいは蔵書に???となるかもしれない。もちろん、親も・・・。だから、早めに、このシリーズを書いておくことにする。
(新聞・ニュース一部閲覧)

サブカルチャーとどう向き合うか

@最後の戦い

紙面楚歌


 「四面楚歌」の間違いではない。先日、新聞の紙面を読んでいると小学校の英語教育の開始とともに「英単語や発音が効率的かつ正確に学習できる」としてニンテンドーDSを導入しようという動きが出てきたという。小学校の先生の賛成意見も載っていた。アニメ立国の日本は、教科書までアニメを登場させ、どんな残酷なTVゲームも野放し、「キャラクター文化のどこが悪い」と開き直った感じで、すべてが認められ始めた。一般の論調がサブカルチャーの危ないところに目をつぶり、問題視を避けている。私としては、まさに紙面楚歌。「サブカルチャーは危ない!」という私は、ついには一人で叫んでいる変り者になりつつあるようだ。なんだか垓下(がいか)で戦う史記の項羽のような気持ちである。味方はいなくて、見渡せば敵ばかり。

苦肉の計


 じつは、ゆめやのブッククラブは最初からサブカルとの戦いを旗印に掲げていた。1980年は開店の年だが、それは初めてファミコンが登場した年でもある。急速にビデオや電子ゲームでサブカルチャーが進化し、広がり始めた時期だ。「この影響は大きい」と思った私は、最初のニュース、新聞から「サブカルの害」について述べていった。そして、苦肉の策として幼児期からの読書をサブカルの防壁にするブッククラブを始めたわけである。当時の会員になんとか認められ、90年代は乗り切れた。2000年前後に少年の異常な事件が頻発して、その原因がサブカルにあることを多くの会員は知ったが、それからまた十年、親も幼児期からキティちゃんグッズに囲まれ、アニメ映画や電子ゲームが主流の少年時代を経たアラフォー、アラサーの世代が前面に出てきている。アラフォーは、バブルの後遺症も残る異常価値観の世代である。頭では分かっても体がまともなものに反応しない。「ディズニーランド大好きのどこが悪いの?」と開き直る人もいる。
 サブカルチャーの最大の弊害は「頭を大人にしない」ことである。いまや、日本は子どもっぽい行動、脈絡のない言葉で満ち溢れている。政治の世界から芸能、スポーツの世界まで。そして、一般の人たちもサブカル大好きで育ってしまったのだ。人間は「刷り込まれたものは良いもの」として認識する動物である。アラフォーのバカ親は、子どもに金を掛ければ立派な人間に育つと信じている。とんでもない量と時間のお稽古事、習い事・・・・ここで確実に当たる予言をしておこうか。二十年後の予測、予言・・・・まず、お稽古事、習い事に漬けられて育った子どもたちの十人中一人も英語は話せないし、オリンピック選手にも作曲家にもバレーダンサーにもなれないということを予言する。まったく馬鹿な金の使い方だが、この世代の親はどうにも変えようがないのである。刷り込まれたバブルの影響は大きい。これとどう戦うか。赤壁(レッドクリフと注釈をつけねばわかってもらえない悲しさがある)の周瑜のように偽計でも考え付かなければ、サブカル汚染された親の大軍と戦うことはできない。困った!!! 

隗より始めよ


 困ったら「手近なところから始めろ!」という言葉がある。二千五百年も前の中国の言葉だが、手近なところから始めろと言われてもどうしたらいいのだろう。何とかサブカルから逃れて成長した子どもたちも大人になってしまって身近にいない。「ケータイなんて百害あって一利もないですね。」と言っていた人も、着信音が鳴れば、その場で話し始める。信用できない! 同じことは「子どもにケータイは持たせないほうがいいですよね。」と言っている親が一年後には就学前の幼児に持たせる可能性も否定できない。(そんなこと言って大丈夫なの?・・・心配ない、心配ない、そういう人は、こんな字数の多いニュ−スなんか細かく読みませんから・・・) さて、そんなことより「手近から始める」と言っても、どこから、誰から始めればいいのだろう。とりあえず「隗より始めよ」のようにかつての優れた会員に手厚く連絡を取れば(「戦国策」では死んだ馬に大金を払う)、いずれ、すぐれた助っ人が三人(千里を翔る馬三匹)現れるのだろうか。

背水の陣


 今年三十年目に入るゆめやだが、こんな時代状況では四十周年はないことは確実だ。と、なれば、このおバカの社会に背水の陣で臨むのが一番。退いたらおしまい。何から始めるか、なのだが、やはり「もう一度サブカルチャーについて真剣に書く」よりないだろう。それしかない。幾人かの子どもは救えるかもしれないし、何人かの親に理解してもらえるかもしれない。訳知り顔のおばさんや危機に鈍感なお母さんを尻目に最後の戦いを仕掛けなければ、ここまでやってきたゆめやとしては腰砕けと見られてしまう。そこで、次回から、サブカルとどう向きあうか(どう戦うか)についてシリーズで書きます。難しい内容になるかも・・・。ご支援、ご協力のほどお願い申し上げます。背水の陣を敷いても漢の韓信の目論見通りに、ゆめやが勝つということはまずないだろうが、戦わずして滅びるのもシャクなので、「敵が百万人でもさあ戦うぞ!」という気概でサブカルを再攻撃してみましょう。

発達に応じるということ 読み聞かせ以前@

1)「早期教育反省」事件


 いつから読み聞かせが可能か?ということは、かなり前から研究されていました。いまでも「生まれる前から耳が聞こえるのだから生まれたらすぐに始めていい」という考えもあります。早期教育が叫ばれた時代には、そういう考えが主流でした。
 これについては、有名な「ソニー名誉会長の井深大の反省」事件があります。彼は、鈴木メソッドという音楽の早期教育に感動して、鈴木の「すべての教育は生まれてから一日も早く始めなければいけない」という考えに引き込まれました。高度経済成長期に理科系の教育で優秀な人材を作る必要があったからです。1969年には「幼児開発協会」なるものを作って0歳からの幼児教室を各地に設け、実験的な教育を行ったのです。ところが、いろいろやっていくうちに、乳幼児にほんとうに必要なことは知的教育ではなく、「人間づくり」や「心の形成」であることがわかり、早期教育を反省することになりました。過度な詰め込みをすると、それが人間性の崩壊や暴力事件に結びついていったからです。そして、知的教育は言葉が分かるようになってからでいいという結論に達したのでした。

2)日本人は忘れっぽい、気がつかない


 ところが、日本人は過去の教訓をほとんど参考にしない国民です。戦争でさえそうですから、教育や生活について平気で矛盾したことや失敗を繰り返します。温暖化で「二酸化炭素を抑制しなければ!」と言われるとエコバックが流行りますが、流行っている最中に「高速道路がどこまでも1000円」となると渋滞が起きるほど排気ガスを出しまくります。
 ○○式・・・という早期教育も多くは落ちこぼれる生徒を救うというスタンスから出たものです。そして顧客が巨大化していくと落ちこぼれはどうでもよくなり、平気で幼児・・・赤ちゃんにまで手を伸ばしてきます。ある早期教育の会社は、もはや少子化で子ども市場は限界!と考え、「脳の活性化でボケの進行を遅らせる学習」なんてものまで手を出しています。でも、対象が老人であれ、子どもであれ、効果があるといわれれば、親や周囲はその教材がもたらす悪影響など考えもしません。「与えれば頭が良くなる」と信じてしまいます。キャラクターいっぱいの赤ちゃん教材、DVDのアニメで教えるパターン・・・これこそが分かりやすい教材だと思ってしまいます。小学校四、五年生の教材を見てみるといいのですが(これは何じゃ!というような内容ですから)、赤ちゃんを持った希望いっぱいの親はなかなか気がつきません。考えてみれば、赤ちゃんのときから「これはこれ、あれはあれ」と物と名を一致させるだけの量攻め学習が後で障害になることは素人でも予測がつきますが・・・・期待は親の目をメクラにすることがあるのです。また最近の親は成長を待てないのかもしれません。

3)やはり発達、成長に適したことをするのが一番


 先端的な心理学や教育学という分野は、人間の未知の能力の開発や希望的観測で「こうすればこうなるのではないか」という傾向が強いです。それは、ソニーの井深会長が落ち込んだ罠でもありました。でもさすがに井深さんはリアリストで、間違いであると気づくと、すぐにその反省をして、正しいと思われる局面へ動きます。ソニーの教育財団は、子どもたちに科学する心を形作るために、いまや「自然に交わって遊ぶことからすべてが始まる」という考え方で運営が行われています。あたりまえのところに戻ったわけです。知的教育を反省した井深氏が強調したことは次のことです。
 「私はいま、妊娠した時からの母親の心構えが、その子の一生を決定すると確信している。言葉を覚える前に教育をする、というと不思議に思われるかもしれないが、五感、運動や芸術の能力、信仰心、直感力などは、限りなく0歳に近い段楷から養われる。言葉を話すようになると、幼児でも頭が理詰めになる。直感力などは育ちにくくなるのだ。言葉を覚える前に人間的なことを植え付けなければ、これからの日本は、心の貧しい人間が大勢を占めてしまう。そんな観点から、0歳児教育をなんとか定著させたいものだと思っている。」(1990・4/28朝日新聞「ウイークエンド経済」)しかし、二十年後、井深さんの予言は当たり、日本は心の貧しい人間が大勢を占めてしまったようです。

4)ノーベル賞学者たちの幼少期


 ノーベル賞科学者たちへのインタビューを聞いていると、例外なく子どものころは遊んでいた、勉強は怠けていた、中には成績がひどく悪かった・・・というような人ばかりです。でも、彼らのほとんどは老人で、長い間、「好き」というだけで、ひたすら研究や仕事を続けてきたのでしょう。そして、その成果が認められたわけです。何もノーベル賞を目指せというわけではないのですが、スポーツ選手や芸能人の瞬発力の人生とはちがう豊かな心の生活が背後にあるような気がします。おそらく幼少期の生活環境が豊かだったのでしょう。
 何も焦ることはないのです。授乳もダッコもみんなそのときそのときの体験で、人間はその積み重ねを経て、バランスの取れた大人になっていくのだと思います。何も生後一ヶ月で読み聞かせなんかしないで、やさしく話しかけてやればいいのではないでしょうか。読み聞かせをする生後十ヶ月などすぐにやってきます。そこまでは丁寧にサポートです。



(2009年5月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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