ブッククラブニュース
平成21年3月号新聞一部閲覧

「エーッ! まだ、こんな形かぁ!」

《暖かい冬》


 甲府は暖かい冬でした。梅の開花も早かったし、何より驚いたのは夏日のような日があったこと。二月に25度近く・・・これは山国の冬としては異常です。急速に環境変化が起きているのでしょうね。起こるべくして起きている変化で、予測も可能でしたが、予測はできても実際に起こるとビックリさせられるものです。「エーッ! こういう形なのかぁ!」という驚きです。これは何度も経験しました。80年代にアニメやキャラクター商品、TVゲームなどのサブカルチャーの影響で異様な少年犯罪が起こると予測しましたが、2000年前後に実際に起こると「エーッ! こんなヒドイ形なのかぁ!」と思ったことがあります。

《昨年からの予測》


 別の面で同じことが、現在、起きています。昨年のお正月のニュース(お正月にはたいてい予測を述べるのですが)でネズミ年は「ものが増えすぎた状態で植物でいえば枝葉が茂りすぎ」「情報も物もあふれ出る」・・・だから「葉っぱを切り落として、日当たりをよくしないと伸びるべきものが伸びない」ということを書きました。昨年のことですから、覚えている方も多いと思います。今年のお正月号では「そのグチャグチャになった状態を元に戻すのがウシ年だ」と書きました。
 昨年前半は、まだ「世界一を目指してイケイケドンドン」でしたが、そんなことがうまくいくわけもありません。後半では自然現象(世界同時不況)として「ものが増えすぎて、植物でいえば枝葉が茂りすぎ」が「元に戻され」ています。政治の世界も経済の世界も現実を見せられると「エーッ! こういう形なのかぁ!」という驚きがあります。おそらく、まだ過去の栄光を取り戻すために「正常に元に戻す」ことができないでアガいている人がいるからしょうね。科学や医学への過信がまだまだあって、「どうにかなる」という無駄な努力をしている人たちもいるのです。

《世界一を目指すのは危険》


 子育てもまったく同じで、「世界一を目指してイケイケドンドン」のような偏差値世代の親たちが、まだ残っています。成績のよさが現実世界では役に立たないことが分かり始めているのに、まだ過去の栄光?です。たしかに、自分が育ってきた経験で物事をやっていくのは世の常ですが、時代が変っていくのに過去の栄光にしがみついていたら、子どもに負担を課すだけです。そんなことをすれば精神病が増えていくことも恐れないで・・・ですね。いまや、子どもに何でも与えることができる経済状態を家庭は確保しましたが、与えられるもの=つまり、周囲にあるものは弊害を生むものばかりになっています。パソコン、ゲーム機、ケータイ、マンガ、フィギア・・・・何もかもが心に異常をきたす原因になっているのですから、与えるより避けることを考えなければならない時代に来ていると思うのです。でも、異常な結果のほうが起きている状態がすでにあるわけで、やはり元に戻る、自然な状態、自然な生活に戻ることが重要だと思いました。
 しかし、現在の結果を見ていると、子どもの育て方も正常な形の元にはまだまだ戻らないわけで、「エーッ! こんなヒドイ形になってきたのかぁ!」と思うことが頻繁にあります。「行くべきところまで行き着いていないな」ということでしょう。たどり着くのは、二十年後くらいでしょうか。悠長なことは言ってはいられないのですが、大衆というものは極端なとことまで行かないと困らない鈍感な存在でもあります。
 子育てもまったく同じで、「世界一を目指してイケイケドンドン」のような偏差値世代の親たちが、まだ残っています。成績のよさが現実世界では役に立たないことが分かり始めているのに、まだ過去の栄光?です。たしかに、自分が育ってきた経験で物事をやっていくのは世の常ですが、時代が変っていくのに過去の栄光にしがみついていたら、子どもに負担を課すだけです。そんなことをすれば精神病が増えていくことも恐れないで・・・ですね。いまや、子どもに何でも与えることができる経済状態を家庭は確保しましたが、与えられるもの=つまり、周囲にあるものは弊害を生むものばかりになっています。パソコン、ゲーム機、ケータイ、マンガ、フィギア・・・・何もかもが心に異常をきたす原因になっているのですから、与えるより避けることを考えなければならない時代に来ていると思うのです。でも、異常な結果のほうが起きている状態がすでにあるわけで、やはり元に戻る、自然な状態、自然な生活に戻ることが重要だと思いました。
 しかし、現在の結果を見ていると、子どもの育て方も正常な形の元にはまだまだ戻らないわけで、「エーッ! こんなヒドイ形になってきたのかぁ!」と思うことが頻繁にあります。「行くべきところまで行き着いていないな」ということでしょう。たどり着くのは、二十年後くらいでしょうか。悠長なことは言ってはいられないのですが、大衆というものは極端なとことまで行かないと困らない鈍感な存在でもあります。

《元に戻る・元に戻す》


 しかし、じょじょにですが、かつて行われていた方法やライフスタイルのほうが再評価されてきて、近代的・現代的な物は不自然で良い結果をもたらさないが分かってきました。戦後、民主主義と科学がひじょうに浸透しましたが、不自然を押し付けた部分が多いのです。自然界に物質的、経済的な平等はありませんし、不老不死や無くならない食物はないのです。変な民主主義的考え科学への信仰が蔓延したことで、人の心はやみ始めています。真空の宇宙で生活できると思い始めていますし、人間は死ななくなると思い始めている人もいます。自然なことが行われないと、人も物も「狂う」ということなのでしょうね。そのための経済減速だと思いますが、子育ても教育もまだ「イケイケドンドン」の感覚が消えていません。これじゃあ、子どもが壊れちゃうよなぁ、狂っちゃうよなぁ」と思います。でも、気がついていない人も多いのです。まだまだ時間がかかりそうです。
 まあ、えらそうなことを言っていてはいけませんね。来年度(5月から)は私たちが「壊れないような」「狂わないような」対策を何とか提案することをシリーズで述べたいと思います。

文学は予言する!

《特別な雛祭り》


 今年のひな祭りは特別なちらし寿司を作りました。具を散した上に紅ショウガで「三十」と書いたのです。なんで三十か? この三月三日でゆめやは開店から30年目を迎えました。おめでたいといえばおめでたいですが、大変だったといえば大変だったわけで、個人的には感無量です。読書が楽しめる子がどのくらい生まれたか? ブッククラブの最初の修了者が出たときに、私は当時の夢新聞に「修了者は二人だが、やがて千人になる」と述べました。しかし、この予言を大幅に上回り、三十年を過ぎた現在、数えると千五百人に達しようとしています。少ないとお思いですか? たしかに少ないです。他のブッククラブをやっている方みたらお笑いになるくらいの少ない数字でしょう。
 でも数字にはマジックが必ずある。ゆめやのブッククラブは2歳になるともう入れないのですよ。紹介者がいなければ、これまた入れない。2歳から入れないとすれば、数は減っていくばかりなのです。そういう中で育ってきた子どもたち年間50〜70人・・・三十年間で大体1500人・・・少ないけれど、私の最初の予言はオーバーした事実です。

《すぐれた物語は予言である!》


 私の予言は、経営的予測にすぎませんが、文学は、とくにすぐれた文学は予言の部分があるものです。ミハエル・エンデは「はてしない物語」のなかで、崩れていく世界を復活させるために言葉で新しい名前をつけるよう主人公の少年に語っています。これも現代に投げかけられた予言です。すぐれた文学は未来を予測し、危機を避ける方法を暗示してくれているのです。あの「無」によって崩れていくファンタジエンを救うのが、新しく物に名を付ける・・・・つまり言葉の再生だということはひじょうに意味がありますよね。そこまで、抽象的でない予言もたくさんあります。
 あの酒鬼薔薇聖斗事件が起きたとき、多くの人が驚き慌て、「子どもが殺人をするなんて!」と言いました。でも、その四十年も前に「午後の曳航(三島由紀夫)」や「天城越え(松本清張)」で、殺人する少年とその心理が克明に描かれていました。最近では、少年の殺人、あるいは大人の殺人も生活規範などの抑制が解かれた結果、性的な衝動抑えられなくなって殺人へ走る特徴が見えてきました。そのきっかけはサブカルチャーに起因するところが多いこともじょじょに分かってきています。無差別大漁殺人・・・作家の辺見庸さんは戦前に書かれた夢野久作の詩に「白いトラックが走ってきて、やがてそれが真っ赤に染まる」という部分を発見し、「これは秋葉原事件そのものだ!」と驚いています。まるで夢で見たことが現実に起こるようなもので、この詩は夢日記のようなものかもしれません。
 一昨年と昨年の夢新聞十二月号で、聖書の中のエピソード「バベルの塔」、「ソドムとゴモラ」について書きました。かつて起きたことがまた起こるという予言ですね。実際、中東では高さ1kmというビルが作られようとしていますし、世界中の世界都市はソドム化しています。中東での後送ビルの破壊はじゅうぶんに予測されることです。東京は、もはや都市の状態を越えて、異常に繁殖するメガロポリスと化してしまいました。文学は予言する・・・・! 最古の文学聖書の予言・・・かつて起きたことはまた起きる・・・北極の氷が溶ければ、ノアの洪水も起きるかもしれません。 

《安全幻想》


 先月号の新聞で「感染爆発」のことを書きました。カミユの「ペスト」描く人間の鈍感さについてでした。ペストによる死者が新聞で毎日報道されているうちに人々は死に慣れてしまい、「自分だけは死なない」という幻想の中で日常を作ります。ところがです。びっくりしたのは今月から警察庁が自殺者の月間総数を発表すると報道したこと・・・何で同じようことが起こるのだ!・・・・「これは数字報道で国民を慣らす『ペスト』そのものではないか!」と思いました。これでは「ペスト」も予言の所になってしまうではありませんか。
 危機になると人間は、危機を見ないように、知らないように逃避する・・・この性質をカミユもフランクル(「夜と霧」の作者・・ナチス強制収容所の生活と精神状況を記した作品)もわかっていたのでしょう。人間は、慣れることで自分だけは生き延びられるという幻想に入っていくのだということを・・・・。 でも、文学は怖い予言ばかりではなく、前述の「はてしない物語」のように世界の骨組みや多様な人間を描いて、われわれに注意深く生きることも教えています。これは、生きるうえでひじょうに強力な武器になります。「こういうやつは騙すぞ」「こういう人は避けたほうがいいぞ」という直感を養えますし、何より生きる方向を確かにしてくれます。「何が信じられるか」「信じてはいけないものは何か」などもしっかり書かれているのが基本的な文学なのだと思います。文学は、道をきちんとたどれば幸福な未来も見えることも教えてくれているのです。
 しかし、それもこれも読まなければ獲得できないもの。最近のサブカル文学やファンタジィでは、いくら読んでも獲得できません。だからこそ真の読書力を身につけたいものです。一番、読書に重要な時期は思春期です。ここで養われた感覚は人生を決定づけると言っても過言ではありません。何はともあれ基本文学を読んでみる・・・そうすれば開けてくるものがあることは保証します。

読書とは感じ取るもの

●本の効力●


発達対応のブッククラブの最後は入学直前の3月です。この月に必ず入れている本があります。この三十年間、基本配本では3月の配本で、この本が入らなかった子はいないでしょう。それは「くんちゃんのはじめてのがっこう」という絵本です。これほど時期が限定される本もありません。サンタクロースの本を秋から読み始めてもいいし、三歳の十二月でも四歳の十二月でもあまり問題はないと思います。しかし、この「くんちゃん〜」は就学直前がいいのです。なぜなら、これは学校に入るのを不安に思う子どもに「だいじょうぶだよ。学校は怖いところじゃないのだよ。」ということを知らせてくれる本だからです。かつて、この本の効力は大きいものがありました。

●ほんとうの理解は感じ取れるか取れないか●


 私は「あらゆる本は理解するのではなく感じるものだ」と思っています。大人が読む難解な社会学の本もじつは文を通して著者の言いたいことを感じ取るものだと思います。先月、「おおはくちょうのそら」について述べましたが、子どもは敏感にテーマや作者の意図を感じ取っています。ところが読書に慣れていない親は、早期教育プリントで行うような「理解」を求めます。「白鳥はいつどっちのほうに帰るのですか?」「白鳥の子どもはどうなりましたか?」の答えを求めるようなやりかたは、子どもを本嫌いにしてしまう可能性が高いのです・・・。「もりのなか」を読み聞かせて、「最初に僕が出会った動物は何でしょう?」などと子どもの理解度を試す親はいません。それでは、感じ取ることはできても、物語を聞くことは楽しいものではなく、単なる負担になってしまうからです。読み放しですよね。

●感じ取りにくくなっている時代●


 ただ、「おおはくちょう〜」も「くんちゃん〜」も、そこで語られるテーマのようなものを感じ取れなくなっていることも事実です。感じ取れるような環境が身近になくなっていることもありますし、新しい環境に不安を感じない成長過程に置かれていることも原因かもしれません。昔なら「入学は怖くないよ」と安心させることが、そのまま効力となったでしょうが、最近は安心感だけ与えても学校が学級崩壊やイジメの巣、低劣な風潮を押し付ける場になっていたら、安心感を与えても逆に「そんなの嘘だ」ということになってしまうでしょう。だからと言って、感じ取る力を養わずに、鈍感さで切り抜けることを教えてしまったら大きくなってから大変です。まったく困った時代になってしまったものです。

●三十年やってきて・・・●


 この三月三日でゆめやは創業三十年を迎えました。でも、この三十年という長い時間を経ても、じつのところ、子ども(人間)の成長にとって本(読書)が必要十分条件を満たしたものと思うまでは行っていません。ただ、近年、異常な進化を遂げている「サブカルチャー(パソコンやTVゲーム、ケータイなどに代表される電子文化など)」とは逆に、読書は思考力や想像力を高める手段だということが言えるだけです。もっと言えば、サブカルチャーは依存症や精神病的な要素を高めることはありますが、読書はそういう方向に行かないことも分かってきました。そこでは、本の効力は感じ取る力を高めて、危険を回避する力や挫折を想定して物を考える力、身勝手を抑制する力などを含むものとなります。だから、必要なものだと思うのですが、読書力はゲームなどと違ってすぐに身につくものではなく、長い時間が必要です。現代はこれを待てるほど余裕がない時代でもあります。どの道を選択するか・・・それが問題です。



(2009年3月号ニュース・新聞一部閲覧)

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