ブッククラブニュース
平成21年2月号新聞追加分一部閲覧

読み聞かせの周辺G 4歳

◆読み聞かせの方法◆


 ここまでくれば読み聞かせには何も問題がなくなります。じゅうぶんに読み聞かせを楽しむ力はついているはずです。もう、読み聞かせおばさんのやるような過度な演出やパフォーマンスは不要です。逆効果といっても良いでしょう。やがて、子どもは本を一人で読んでいかなければなりません。読書とは淡々と文を読んでいくものです。視覚的な効果や演出効果で読書をするのではありませんから、もう4歳になればふつうの読みでけっこうです。じゅうぶんに聞き取り、理解する力は備わっているはずです。本の内容が厚みを増し、長さも長くなります。三歳までのときと違って親が寝かしつけられてしまう危険性(笑)もあります。それも、後になれば楽しい思い出になることでしょうね。

◆社会性が出てくる◆


 4歳児の配本で特徴的なことは、人間関係とか事物の関係がテーマになる絵本がたくさん入ってくるということです。もちろん外の世界に対して自我が強くなって、親とはモメることも出てきます。第一反抗期にさしかかっているわけですから、あたりまえの現象ですね。でも、まだまだ無軌道なところも残っています。こういうことを組み見合わせて、さまざまな関連のお話を配本プログラムでは構成しています。
 自分の手元に囲っておきたい母親とその手から抜け出たいウサギの親子の想像力あふれる「ぼくにげちゃうよ」、母親に反発して怪獣の世界に行って君臨する子どもを描く「かいじゅうたちのいるところ」・・・・まさに4歳児にうってつけの本です。

◆空想のなかで暴走する楽しさ◆


 4歳児の持っている特徴は果てしないエネルギーです。そのエネルギーで好奇心も発揮すれば無謀なこともやりかねない。こういうときは、力の爆発を本の中で肯定するお話も必要です。頭の中で暴走をすることは楽しいはず。そんな本も男の子、女の子でそれぞれ厳選して、いくつか入っています。とくに4歳は性差が顕著になる時期です。無謀なことを煽るのではなく、楽しく読んでいくうちに、それが無謀であると自ら分かる本でなければ秀作とはいえません。
 でも、日本の絵本の歴史は長いですから、男の子、女の子にそれぞれ適した本は層が厚くなってきています。戦隊物やかわいらしいだけのキャラクターものでは逆に性差を強調したり煽るだけのものでしかありません。

◆自分以外の人に関心を持つ◆


 自分を認め始めるということは外の世界も認めていくということです。そこでは自立への葛藤(反抗や苛立ち)もありますが、自分が属しているものはどういうものかを感じていく時期でもあります。つまり、社会性ですね。自分の中のきまりと世の中のきまりのずれが不安定な気持ちを作ることもありますが、それも成長の一過程なので、よほど異常な家庭でない限り、社会性はついてくるものですから御心配なく。
 ですから、ここでは、他人を思う、あるいは考えるようなきっかけとなる本も与えたいです。配本では、いくつか、この社会性の芽生えを助けるような本も組み入れてあります。内容が楽しめればそれでいいのですから、理解度など試さずに楽しく読んであげてください。



【絵本の読み聞かせとその環境】


 最近、ゆめやのブッククラブの方式は「もう古いのかなぁ・・・」と思うことがあります。一年間に出版される絵本は2000冊以上・・・ゆめや独自の選書観でそこから選ぶのですが、新規採用される数は十冊にもならないことがあります。配本される多くはロングセラーのものばかり。
 ところが、世の中はどんどん進んでいて、ゆめやの選書が避けているキャラクターは花盛り。もはやアニメ文化の真っただ中です。若者の嗜好もアニメキャラをそのままコスプレ化するファッションに移っています。秋葉原、渋谷を歩くと、私にはキチガイとしか思えないファッションの若者が山のようです。秋葉原、渋谷に限らず、日本の多くの大都市では同じような現象が出ていると思います。メディアも、そういうファッションを批判もなく取り上げているし、そのような服を着たりメークをした芸能人が当たり前のようにお笑いやトーク番組に出ています。まるで日本独自の「アニメ」「かわいらしさ」「おバカ」文化を誇ってでもいるかのように・・・この映像は家庭で当然、子どもの目にも触れますよね。そういう中で、まともな絵本の読み聞かせなど何の意味があるのだろうか?と思ってしまうことがあります。

【読み聞かせも読書も価値がなくなってきてる?】


 去年、お子さんが小学校に入ったあるお母さんの話です。「家庭訪問のときに、これまでゆめやさんから配本された絵本がいっぱい詰まった本棚のある部屋へ先生を招いて話をしていたのだけれど、先生は本のことにまったく触れなかった。本棚を見る様子もなかった」というのです。お母さんとしては「こんなに良質の絵本を与えてきた」と自慢をしたかったというのですが、感心も示してくれなかったので失望したのでしょう。そこで私は「じゃ、来年は早期教育のプリントを山のように積み上げた部屋で話をしてみたらどうでしょうか。」と言って笑ったのですが、実際は笑い事ではないのでしょうね。学校の先生も時代とともに変質してきています。昔から、私たちの業界では「子どもの読書を推進するわりには、先生本人で子供の本を読んでいる人が少ない」という常識もあります。
 最近の若い先生は、教員試験という熾烈な生き残り競争を体験してきた人ですから、お勉強に次ぐ、お勉強で読書などしている暇もないでしょう。実は、以前「子どもの本の専門家養成講座」というところで「発達選書論」を受け持ったのですが、受講生の中には現役の司書や先生、読書推進活動をしているおばさんたちが多くいました。そこで、「どのくらい基本的な文学を読んできたか」というアンケートを実施したのですが惨憺たる数字でした。大人の側もそういう状況なのです。

【本よりケータイか?】

 年末、近隣の大学の学校案内を見ていたのですが、4ページを使って何枚かの写真で学生の下宿の風景が撮影されていました。大学生活の紹介です。部屋の中には本棚などありませんし、本が見当たらないのです。きれいに片付いているのは業者の撮影だからでしょうが、ケータイを持った笑顔の本人の写真。テーブルのうえにノートパソコンがひとつ。つまり、その学校案内に隠れたコピーメッセージは「本など一冊も読まなくても大学生になれる」というものでしょう。いわゆるケータイ文化そのものの安・近・短(これは安直・近視眼的・短文化)です。軽佻浮薄な人間のほうがこの時代を乗り切れるというのでしょうか。
 考えてみれば読書をする人の数は昔も今も大差がないのでしょう。増えているわけでもないとするなら、大学生がケータイをにらんでばかりいたって不思議はありません。読書が当たり前の少数の人が大学生になった昔と違って、現代は誰でも大学に入れるわけですから、大学生が読書をしなくても、大麻を吸っても、強盗をしてもおかしくはないわけです。

【ところが・・・・】


 そういう読み聞かせを取り巻く環境が進んでいるにもかかわらずゆめやでは不思議な現象が起きています。こんな時代なのに読み聞かせをしようという親が増えているのです。二歳を過ぎたらダメ、紹介者がいなければダメというハードルの高さを問題にすることもなく微増、微増で増えています。昨年あたりから、かつて読み聞かせを受けてきた過去のBC会員のお子さんがまたわが子のために会員になるといううれしい話まで付け加わっています。やはり、世の中は多様なのでしょうか。すべてがサブカルチュアに染まってはいないのか、どこかで波長が合っているのか・・・原因はわかりませんが、私には不思議なのです。ただ、本に関心を持つ階層がきっと存在しているのでしょう。決して層が厚くなっているのではなく、未開拓の人たちがたくさんいるだけのことだと思います。ある紹介してくれる会員は「この本屋のおじさんは変わっているけれど・・・」と勧めた人に言って誘ったそうです。
 失礼な!・・・私は当たり前のことを当たり前のこととして言う、まったく常識的な人間で、変わってなどいません。変わっているのは世の中のほうです・・・が・・・。

子どもを親の世代から見る(3)

◆親の環境と子ども◆


 ときおり就学児童の配本プログラムを組んでいてガッカリすることがあります。読書好きな子どもに育つばあいなのですが、これはほとんど親(例えば本を与えることに熱心であるとか親自身が読書量が多いとか)の力であって配本の力ではないことが多いのです。「ああ、こういう子は黙っていても本を読むようになるな」と思うことがしばしばあります。
 これは親が幼少時に経験したことを意識的、あるいは無意識的に自分の子どもに繰り返すからでしょう。本を読むことが嫌いな親も繰り返すので、そのばあいは読書から離れていきます。やはり親がやってきたことと同じことを子どももすることが多いです。
実際、いくら読書が良いと分かっていても自分が体験しなかったことはなかなかできるものではありません。

◆親の世代が本を読んだか?◆

 これは統計資料がないので、まったくの手ごたえでしか言っていないのですが、私は九割の日本人は、いわゆる読書ということをしていないと思います。50歳以上ではわずかにいますが、50歳以下では激減します。仕事関係の本とか軽い読み物なら読んでいる人は多いかもしれません。でも、それは読書とはいえません。さらに子どもの本から大人の本まで系統的に読んできた人はかなり少ないと思います。当然、世の中一般では現在の子どもが読書をする比率は下がっているでしょう。学校図書館や公立図書館が公開する数字は私の手ごたえより当てにはなりません。読書とはいえないようなものまで加算されているからです。40歳代以下が本格的読書をしなかったというのは現在の子どもたちの読書への影響も大きいです。では、何が知識かというと、ほとんどがテレビ、雑誌の番組・記事からの知識で、これが「多く知ることがいいことだ」の根拠になっています。これは、テレビ教育やインターネット教育を推し進めた学校の影響も大きいでしょうね。

◆幼少期の体験が生きる方向を決めてしまう◆


 私は塾へ行って勉強をしたことがないので娘たちを塾へ行かせませんでしたが、塾で勉強した親は当然抵抗感なく子どもを塾に通わせます。TVゲームで育った親は、子どもとTVゲームで遊ぶのは抵抗がないでしょうし、ディズニー大好きの親はためらいもなくディズニーグッズを買い与えます。つまり行動は、体験した領域からなかなか出られないのです。漠然と読書は「何かに役立つ」「心のために良い」と感じていても、自分自身が読書で何か得た経験がないとなかなか子どもに与えません。ブッククラブの会員ではそうではない親が比較的多いのですが、一般ではまず読書の価値など考える人はいませんね。これは70歳前後以上の人たちが、基本的に生きるうえで何が必要かと言うことを伝達してこなかったことにも一因があります。彼らは経験絶対主義ですから、本の中に書かれていることなどより、自分の狭い体験が一番なのです。それで物を言います。世界は大きく変化しているのに・・・・。

◆新たな断絶の波◆

 さらに、現在の抱える大きな断絶があります。これはメディアと進化したサブカル文化に影響されきってしまって、体験も目的もなく生きている世代の登場です。こういう世代は自分の生き方と言うより、世の中の流れに浮き漂って生きているだけです。そんな人が親になっている時代となりました。これを解消できるのは学校でも地域でもなく、やはり家庭でしかないのですが、すべてを子どもから遠避けて、サブカルチュア関連のものの影響がない生活を与えるのはむずかしいです。
 この問題は社会的には乗り越えられないかもしれません。学校が本当の意味で読書推進活動をして、よく考える読書に持っていくとか、粗悪なものを排除するとかをすればいいのですが、それはないでしょう。平然と学校図書館に学習漫画を置き、キャラクター関連を置く。・・・・選ぶもヘッタクレもないのですからすごいです。乗り越えられないとすれば個人的に、個別家庭的に親の思いをつなげることをしなければならないのです。



(2009年2月号ニュース・新聞追加分一部閲覧)

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