ブッククラブニュース
平成20年10月分

欧米か?!

タカ&トシの漫才に「欧米か?!」というギャグがある。ちょっと横文字使ったり、欧米風のことをしたりすると「欧米か?!」とスパーンと頭を叩くギャク・・・時代を皮肉ったものだ。たしかに、三十年以上前と現在を比べると、いったい何をすれば「ちゃんとした生活になるのか?」という問題があって、そこで何かすると「欧米か?!」になるわけ。でも、欧米化は今始まったことではなく、150年以上も前からだ。2000年以降、日本人が生き方を見失った状態があるから、このギャグが受けるのだと思う。、ギャクがあってもなくても、騒いでいても黙っていても欧米化はどんどん進む。
 ところで、あまり気がつかない現象だが、今年春のyahooのインターネット検索メイン画面から「本」の項目が消えた。ショッピングに進んで、その一番下の「本」から探すようになった、検索数が少ないから、そうなったらしい。ウエブ関連は生き馬の目を抜く社会だ。非効率なものはすぐに消える。欧米では本は売れない商品のひとつなので、このような対策が取られるのだろう。残念ながら本は、日本でも本の地位は「欧米か?!」となりつつある。  このような劣化の傾向はどこまで進むのだろうか? もちろん、これも破局から目をそらして、物量で安心を買い、深く考えない友人関係や親子関係でお茶を濁すための「欧米か!?」かもしれない。
トイザラスから山ほど玩具を買って与える。どんどん欧米食を与える。遺伝子が違うのだから早死にするかもしれないが、ま、それは先のこと・・・ま、いいっか! ここでも欧米化はどんどん進む。離乳食も面倒だから缶詰のものでいいや。好き嫌いが出てもすぐには死なないだろう。オムツも紙オムツで吸収のいいヤツをはかせておけば、いい。6歳になってもオムツが取れなくて困ることはないだろう。生活も変化する。子どもをテレビ漬けにして、親はそばでニンテンドーDSをやり、ネットゲームにはまる。「欧米か?!」だが、これは日本発の「欧米か?!」。
 ブログも横行している。見る気にもならないほどの数だ。子育て関係だけを見ても無数。「今日は○○を食べさせた」「今日は△△をした。」・・・そんなつぶやきとも日記ともわからぬ子育て情報が世界中にばら撒かれる。欧米か!?
情報のグローバル化とは「しようもないこと」を世界中に発信できることでもある。
 その中にトンデもないオススメ絵本のブログがあった。「うちの子たちはディズニーが大好きで、このシリーズは全部買いました・・・」。絵本の紹介だが、「避けたほうがいいのに」というものがオススメ?だ。知らない人が見れば、すぐれた絵本だと思うかも。ブログ・リテラシーを持ってみないと「しようもないこと」は「ふつうのこと」になりかねない。さすがブログで、個人的な満足がえんえんと書かれるだけだ。若い人たちは、そういうもんだって分かっているのかなぁ。
 これはもう、好みだけで進んでいく世界だ、「好きなんだから、いいじゃない。それが何かぁ?」といわれれば黙るしかない。「それは選んだのではなく、好みで子育てするだけのものにすぎないのだよ」と言いたいが、ブログママたちは聞く耳も持たないだろう。
 選ぶということは、たくさんの物のなかからbetterなものを探すことだ。何でもかんでも買うことは選ぶこととは違う。betterなものを探すことは選んだbetterな基準で生活を維持しようとするものだろう。「もこもこもこ」や「ちいさなたまねぎさん」は「ノンタン」よりbetterと思うなら、それが、その人の価値観である。ディズニーを与えながら秀作絵本も与える。「何でも与えればリッチじゃん!」か。そりゃ欧米というより「米国か?!」である。米国の行き方はもう行き詰まりがきている。
 やはり、抑制の効いた選択はしなくてはならないだろう。そして、その選択の基準は絵本ばかりでなく生活すべてに適用されなければ意味がなくなる。betterな絵本とアニメ絵本はバッチングする、また、ファストフードとも相容れないだろう。ぞんざいな言葉とも合わない。
何でもかんでも買って与えるのが「欧米か?!」だとするなら、いま、買い与えるだけの子育てが破綻しているのを知るべきだと思う。そんなことは現在の日本社会の事件を見れば分かることだ。子は親を親と思わなくなっている。ひょっとすると親も子を子だと思わなくなっている。これを打開するのは親が真にbetterなものを求める生活ができるかどうかだ。
 ときおり、betterとはいえない本を大量にリストアップしてくる人もいる。私は基準を示す表を作って返してあげる。若い親はbetterがどういうものかを、これから学習していけばいいわけだから、「欧米か!?」と頭は叩かない。それが歳を経たものの仕事ではないだろうか。いまや、老人も自己表現に明け暮れて、子や孫のことなどどうでもよくなっている世の中だ。やはり、何が良くて何が悪いか、何が真っ当で何が真っ当ではないかを示していくことを誰かがしないと、この国の若い世代は自由の中でなしくずしに欧米化してしまうよりないだろう。個性の重視ということから遠ざかるなら、それもしかたがないが、やはり、子どもには子ども、親には親の「より良い個性」がないと多様化はできなくなって息苦しさだけが募っていくような気がする。
(フレンドシップニュース一部閲覧)

空疎な言葉の時代

 待合室のマガジンラックに手を伸ばすと「キャビネット」という内閣府のパンフがあった。「そうか、内閣は英語でキャビネットなんだ!」と思いながら読み始めると、福田前首相の文が載っていた。日付は八月十四日。内容は北京オリンピックに触れたものだ。北島や内柴の「金」を褒め、谷亮子の「銅」を褒めちぎっていた。谷の言葉「主人の理解と家族のサポート、息子の応援がなければママとしてのチャレンジはできなかったでしょう。」という引用から始まって「谷を応援する声なき声があったのだ」と言う。だから自分も国民の声なき声を聞き、どう応えていけばいいか。そのために「安心実現のための総合政策」をまとめた。しっかりと実行したい。「時機を逸せず実現するよう全力を尽くす」・・・と結んでいた。
 この文を一ヶ月経ってから読むと空疎なものがある。だって首相をもうヤメっちゃったんだもん。政権放棄。読んだときには首相が変わっていた。これでは「全力を尽くす」もヘッタクレもない。まったく言葉は力を持たなくなってしまった。
 言葉の無意味さはさまざまな偽装問題、隠蔽問題ではっきりと知られたことで。事実と言葉が一致しないと言葉は価値を失う。「やる」と言った人間がやらなければ言葉の意味は消える。もちろん、キャビネットの文は東大出の官僚が書いたものだろう。しかし、誰が代筆しようと署名があるかぎり本人の言葉であり、だからこそ大言壮語を吐いてはならないが、この国では首相からスポーツ選手に至るまで、平気でできそうもないことを言葉にする。
 谷のチャレンジも「なんだかなぁ」だった。首相は家族のつながり、周囲の応援を声高に褒め称えたが、現実がどうなのかは、われわれは知るよしもない。あんなに世界各地で試合をして、毎日、長時間、稽古をして、子育てができているのか、ふつうの家庭が成り立つものかどうか・・・子どもを産めば誰でも「ママ」になる。しかし、それだけで「母」になれるかどうか。母になるために「全力を尽くす」、これは言葉が生きるか死ぬかの問題なのだ。同じことは「親」「父」「家庭」「社会」・・・すべての言葉で言える。子どもが言うことを聞かないからといって殺すのは親ではない。ちょっと目を離したら子どもが殺されて捨てられているのは「社会」ではない。ここには言葉が空疎にする「嘘」がある。しかし、じつは私たちの周囲でも、気がつかないうちに、あるいは巧妙にこの「言葉の空疎化」を進めている人々やケースがあるのだ。
 行政は空疎なことばかり行うが、それに乗って効力もない読み聞かせ活動をしたり、読書推進運動をしたりする。行政主導型のすべてが中身よりも見かけで進めるものであることを知ってか知らずか、それに乗る人々・・・「子どもを本好きにするために・・・・」・・・キャッチフレーズは仰々しいが、では読み聞かせイベントで何人の子どもが本好きになるかだ。まず、それだけで終わる。数ばかりではないよ。質も。
 子どもの読書は段階を追って、系統的にフォローしなければほとんど意味がない。たまたま、本を好きになり、読んでいく子も出ることは出るが、数も少ないし、質も低いことがある。サブカル文学、ケータイ文学も「本」かもしれないが、そんなものを読書と言ったら、こりゃあもう読書推進もへったくれもない。実態がひどいもので見かけが華々しい活動は空疎である。読み聞かせおばさんたちのイベントなど個人のガイドなど無視した自分たちのための活動にすぎない。国民を無視した政治家と同じである。
 政治家の言葉が空々しいのは、平気で嘘をつくからだ。「やります」と言ってやらなければ、それは嘘となる。嘘が当たり前の社会では誰も言葉を信用しなくなってしまう。言葉は責任を果たしてこそ意味を持つものだし、並べれば何でもいいというわけではない。つまり、言葉を空疎なものにしないためには、言ったら行う、言葉を骨抜きにする嘘は言わない、人を大事にするように言葉を大事にする、ことが社会でも家庭でも大切だと思う。憲法の条文を自分の都合で変えてしまえば、内容のない空疎な言葉の連なりになるのと同じである。言葉が信じられない世の中は不安だらけになる。


(ニュース一部閲覧2008年10月号)
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