ブッククラブニュース
平成20年9月追加分

読み聞かせの周辺D

2歳後半

●大人の記憶とはちがうパターン●

▼ 二歳後半の発達は前半にくらべて急速です。多くの子が周囲との会話が自由になっています。すでに二歳前半で気がついている方もいるかもしれませんが、読み聞かせた本の中の言葉を適切な場所でタイムリーに使える力が備わってきているわけです。
つまり言葉は耳から入って、どんどん増幅して、脳は多様な言語の使用パターンを覚えていくというわけです。配本では、前述したように会話語と文章語(話し言葉と書き言葉)の区別が行われます。もちろん、いきなりではなく、じょじょにオーバーラップする形で進行しますが、最終的には文章語になります。それは当たり前ですよね。多くの本は、あるいは物語は「書き言葉」で書かれているのですから。
▼ たしかに、この時期の記憶力はものすごいものがあります。実際に「天才ではないか!」と思うほど理解していきますが、これも聴力のたまものです。ただ、記憶のパターンは一過性のもので、すぐ忘れるものでもあります。またそれでなければ多様で複雑な言語の体系を獲得することはできません。
  ▼よく、この時期から3歳代にかけて早期教育で、カナ文字、数字、英語、漢字などを教え込もうとする人々がいます。たしかに覚えます。一つのものをパターン学習させれば、この時期の子は、そりゃあもう覚え倒します。問題は、それ以降・・・それが記憶の方法でしかなくなったら他の力が出てきません。「チビっ子漢字博士」などで終わってしまいます。やはり考える力や組み立てる力が必要です。国語や数学は文字や数字の寄り集まりではないからです。頭の良さは記憶だけではないのですね。その辺のところが分かっているかいないか・・・・大人の決めた約束事は覚えさせるより自ら自然に覚えていくことをさせたほうがいいのです。まずは想像力をつけないと・・・・。

●所有しなければ、頭の中にもない●

▼ 配本では「もりのなか」や「ぼくのくれよん」のような多彩なパターンの本が組み込まれます。ここでは記憶力のほかに想像力が急速に発達します。周囲のすべてを何かに見立てて遊んだり、絵本の中のことを真似て遊んだりします。何度も繰り返して読むことで、深い内容がだんだん理解されます。
こんな経験はありませんか。一歳のときは与えた本にすぐ反応して喜んだのに、二歳過ぎると、慣れた本が好きで、新しい配本にはなかなか関心を示さないという現象。
そして、背表紙の字も読めないのに本棚に詰まった本の中から、サッーとお気に入りの本を引き出してくる現象。二歳児独特の記憶パターンです。これもみな「所有していること」で起こる現象です。

▼決して売る側の論理で言っているのではありません。幼児は本を所有しなければ内容が頭に残らないのです。これは大人でも基本的なところではそうです。
 世の中は図書館の利用を幼児に勧めていますが、これだって元を正せば「親と子の結びつきの確保」とか「非行防止」など行政的な発想です。学級崩壊が起きたから「十分間朝読書」を始めたのと同じ理由です。現に図書館はいくらでも貸し出しますが、年齢に即して体系的に貸し出すような試みはどこでも行われていません。二週間借りて、毎日読んでも返してしまえば、子どもの頭の中には本の外形しか記憶になく、「あっ、その本、知っている」に過ぎなくなってしまうでしょう。タダより高いものはないのです。
▼ 二歳後半の配本構成は、色彩感覚の発達やモノトーンでの想像力の刺激などを考慮して、さまざまな配本をプログラムしています。もちろん自分の周囲のことや「おやすみなさい」の本、ナンセンス絵本などが取り混ぜられますが、これは三歳できちんとした物語絵本が楽しめるための下地を作るものです。
 読み聞かせの基本は文章語の本「もりのなか」や「おおきなかぶ」などはできるかぎり淡々と読むことですね。その他は、まだアドリブや面白おかしく読んでもかまいませんが、物語の面白さを伝えるのは読み方でなく、言葉そのものなのだ、という気持ちを忘れないでください。言葉の面白さが分からない子が現代では増えています。アニメやキャラクター絵本の影響は大きいです。読書へつなげたかったら、まず「言葉の面白さ」の体験ですね。


親や子がいる場所E「蓋然(がいぜん)」

◆行き過ぎ◆

 今世紀に入ってから、いやもう少し前からか、「これは限度を超えている」「行き過ぎ」ということがひじょうに目についてきた。いつの時代にもあることかもしれないが、「ふつうそこまでしないだろう」ということが平気で行われている。それを最初に感じたのはイラク戦争。「核兵器を持っているからやっつける」ということで攻め込んだらその事実がまったくなかった。「嘘をついてでも石油が欲しいために戦争ができる時代になったのだ」とビックリしたものである。欲望を止める健全さがなくなっている。

◆根本は同じ社会現象◆

 その意味では最近起こる事件や社会現象は、すべて「限度を超えたもの」「行き過ぎ」であると言ってもいい。
例えば、1)代理母で子どもを作ったが、卵子が誰のものかわからないという理由で頼んだ夫婦が離婚した・・・2)祖父、祖母と生活していた五歳と三歳の子が溜め池で溺死したが、その祖父の年齢が41歳・・・3)不治の病が治る時期が来るまで脳を冷凍保存しておく・・・4)78歳の人が3000m級の登山で死亡・・・5)東京の真ん中のアパートの一室で50匹以上も外国産の毒ヘビを飼っていた男がいた・・・6)地球が温暖化で住めなくなるのを想定して火星に人類が住めるか可能性を探る・・・これらはみな、ここ数ヶ月間の新聞記事である。一見、何の関連もない事件のように見えるが、じつは欲望を無制限に拡大した結果であることは想像できるだろう。「誰が何をしても自由」・・・これが体外受精から給食費の未払いまで世の中を覆っている。

◆マッド・サイエンス◆

 科学の進歩が欲望の実現を行うが、じつは中途半端な進歩でもある。見かけは「不可能を可能にしている」状態だが、何もかもが思うようにはいかない。代理母の子どもが果たして自分の子として認識できるかどうか、早すぎる出産が子どもに幸せをもたらすかどうか、何を輸入してもいいのかどうか、地球がダメなら他の星へ移住という発想でいいのかどうか・・・こういうことを考えていない。科学の行き過ぎが生んだ悲劇はたくさんある。メアリーシェリーの「フランケンシュタイン」が警告しているように・・・あるいは芥川龍之介の「河童」が皮肉っているように・・・・たしかに科学は異常に進歩している。昔は助からなかった命が助かっている。でも、人間が死ななくなったわけではない。小さな宇宙ステーションの中で息ができる程度の進歩、いわば「中途半端な進歩」なのだ。本気で何十億の人々が生活出来る宇宙ステーションを作る気はないだろう。科学が人間の幸福ために便利や不老不死を追求しているとは思えない。

◆逆立ちする考え◆

 新生児死亡率というのは昔から高かったが、医学の進歩で死亡率が低くなると人間のほうが「ちゃんと生まれてあたりまえ」という感覚になってしまった。そうなれば産婦人医など怖くてやっていられない。人は不妊でもあきらめなくなる。脳死状態でも生かそうとする。医学の側でも実験してみようと思うマッド・ドクターも出てくる。「助かってあたりまえ」「死ななくてあたりまえ」「夢がかなってあたりまえ」・・・これは現実を無視した思考の逆立ちだが、それもあたりまえになっている。実験が失敗してもいいじゃあないか・・・・あきらめることはいけないことだ・・・となる。ここでは科学が万能と思われるようになり、夢が膨大にふくらみ、何もかも出来てあたりまえになる。中途半端な進歩で作られた擬似的な状態だが、現代では「行き過ぎ」は平気で認められる。辞書によると「行き過ぎ」には「でしゃばり」「生意気」という意味もあり、余計なお世話でもあるのだが。

◆出来てあたりまえ◆

 みんなの考えが「あるいはそうなるのではないか」という「蓋然」を決め込んでいる。現実的ではないのだが、どんどん「行き過ぎ」が認められていく。便利であたりまえは出来てあたりまえにつながる・・・0歳から教育すれば天才になれるのではないか? 死なない人間になれるのではないか? 誰かがどこかで何とかしてくれるのではないか? だから「金メダルを取る!」と大言壮語をして、取れなくても誰も責任を取らない。誰もが「あるいはそうなるのではないか」と思っているから、大言壮語はキャッチフレーズのようなものだ。そうなれば言葉は何の意味も持たなくなる。こういう中で教育が暴走して、とんでもない状況に子どもを追いやって行くことはないだろうか? もたらされるものは理想・夢・虚構というすべてバーチャルなものなのだが・・・子どもの頭(親も)に、努力もしないで「あるいはそうなるのではないか」という夢だけは満たさないようにしたいものである。


(ニュース一部閲覧2008年9月号追加分)
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