ブッククラブニュース
平成20年6月追加分

読み聞かせの周辺A ●生後10ケ月〜1歳前半●

▼ 物の認識を触覚でしていた時期が終わり、生後十ヶ月前後から視覚で認識する力が高まってきます。でも、読み聞かせを始めるときには、多少、触覚認識の残っていて本を物のように扱う子もいます(本を舐めたり、噛んだり、投げたりする)。1歳半ごろまでにはなくなりますが、なるべく早いうちに本の各場面に集中する力をつけたいものです。なぜかというと、この時期の本は、さまざまな違いを覚える時期です。ライオンとイヌのちがい、スイカとリンゴのちがい・・・、出てくるものと消えるもののちがい・・・物には言葉がついていて、世の中に存在するものであるということを知る最初です。
▼ 赤ちゃんの意識は世界といつも一体ですが、世界からひとつずつ物を切り取っていく過程です。つまり、世界を客観的に見ていく最初だと考えればいいでしょうね。違いがわからないというのは大変です。近年、教室と自分の家の区別もつかない子も出てきていますしね。認識力というのは区別ができる力なのです。ですから、本と紙の区別ができないで、破いたり、乱雑に取り扱うことは戒しめるべきです。もちろん、この時期には当然のようにやる子どももいますが、「それが子どもだ」と思わずにキチンと区別を教えるべきです。もし破ったりしたら、その場で叱り、時には手のひらを叩いてもいいでしょう。そして、テープなどで修復するところを見せないとまずいです。おもしろがって何度でもやりますからね。
● さて、最初の時期の読み聞かせはどうしたらいいでしょう。いくら区別だからと言っても、まさか「これはキリン、これはネコ・・・」などブッキラボウに教え込む親はいません。描かれているものを介して場面にあることや様子などをふつうに話せばいいわけです。もちろん、なるべく気の散らない静かな時間に抱っこして読んであげるのが一番です。子どもは絵本の内容より、まず読んでくれる親の声や柔らかい感触に快さを感じ、それからしだいに絵本が好きになっていくのです。読み聞かせをする親の多くが「この時間を共有に至福を感じる」と言います。アドリブを入れてもいいし、パフォーマンスを入れてもいいです。この時期の読み方はまさに親の自由裁量。義務的に読むのではなく暖かく楽しい時間になるようにすればいいのです。
▼ 1歳前半では急速に認識する力が増してきます。それこそ一ヶ月でおどろくべき進歩を見せます。輪郭画だけのものでも十分に何であるかがわかるようになってきます。配本もそれに応じて、動作絵本や感覚絵本がタイムリーに読み聞かせできるように組み込まれます。後半のちょっと高度な絵本にすんなりと入っていけるためにも何度も何度も読んであげてください。
● この時期は、特別に読む時間帯を決める必要はありません。子どもが要求するときに「あとでね!」とは言わずに読んであげてください。手の空いたときに親から読み聞かせをすることを繰り返してくださればありがたいです。子どもは親を独占できることがいちばんうれしいことなのです。親への配慮などは育っていません。また、独占することで安心感や自分が大切にされているという意識を高めていきます。脳の発達では、旧皮質の安定的成長期です。自分がどんなものであるか、自分は他から肯定的に受け入れられているか、という意識を名声する大切な時期です。旧皮質の成長は2歳半でストップしてしまい、その後は成長しませんから、なおさら重要な親と子の時間でもあります。

● 親や子がいる場所A「陳腐化(ちんぷか)」●

◆周囲の陳腐化◆

 陳腐・・・辞書によると「古くなって腐ること」とある。一般的には「古びて使い物にならなくなる」ことを指す。
この現象が起きてきたのは、四十年くらい前、アメリカの有名な少女向け人形メーカーが画期的な販売方法を考案した。なんと少女たちが使っていた人形を下取りして新しいものを安く売ろうというものである。汚れたものを捨て、新しいものに代える・・・誰もがそんなことがうまくいくはずがないと思っていた。ところが、この販売方法は大ヒットしたのである。
就学児BCのみなさんなら女子に「ジェインのもうふ」、男子には「ビロードうさぎのなみだ」が入っているから、このへんのことはわかっていると思う。当然、「子どもは大好きな人形がいくら汚れてボロボロになろうと手放すはずはない」と思われた。ところがアメリカの少女たちは、どんどん新しい人形に代えていったのである。 この現象は日本の高度成長期にも加速度的に起こった。「修理して使うより新しいものを買ったほうが安い」という消費の仕組みになってきたのである。情報化が始まると、ハードもソフトも出ては消え、消えては出るということが、あらゆる物で起こり始めた。好みの映画やドラマをビデオで山のように録画してもDVDに代わってしまう。変換する作業が面倒なので、ビデオはホコリをかぶるか、捨てられる運命だ。いや、映画やドラマ自体がどんどん陳腐化していき、「ああ、そんなのあったっけ?」という状態である。画期的なコンピューターであったウインドウズ95を今、使っている家はないだろう。次から次へ新しいタイプが出て、古いものはサポートされなくなるからだ。MS−DOS機など文字通り、前世紀の遺物である。ゴミでしかない。何もかもが古びて使いものにならなくなる世界にわれわれは置かれているわけである。

◆物に影響される心◆

こうして周囲に「陳腐化」が始まると、その流れに乗った人は陳腐化に自分の生き方が影響されてくる。物に愛着を持たなくなるし、「けっきょくゴミになるのだから丁寧に扱ってもしようがない」と思い始める。たくさん買い込んでもどんどん陳腐化が起きるから、何が大切で何が不要かなどという判断もつきにくくなるわけだ。だから、下取りに走る。本も同じである。子どもに読み聞かせていた思い出深い絵本もBOOK OFFに出してしまう。以前、甲府の「BOOK OFF」を見回ったら(?)、山梨ではゆめやしか取り扱っていないはずの本が並んでいた。しかも、見慣れた配本パターンの本といっしょに・・・。たしかに子どもが大きくなってしまえば、重くて量のある本は場所ふさぎである。新しいものを買い込むためにはスペースを空けることは陳腐化の時代に必要だという考えが強まっている。
ネットで物を買うばあいを考えてみよう。自動受信ですべてが処理される。相手の顔も見えない。声も聞こえない。つまり商売自体が「その場かぎり」なのである。買い込んだ履歴は保存されるだろうが、売る方も買う方もその取引が古びて何の意味も持たないことを知っているはずだ。交流もなければ関係も成立しないことも了解済みである。ま、物の世界だからかまわないか。「消費」とは、文字通り欲しい物を手に入れてゴミと化せばいいわけだ。

◆親も子も陳腐化の中◆

問題は、その流れに人の心が影響されないかどうかということだ。しかし、「陳腐化」の影響は確実に親の世代から始まっている。四十年位前に始まったとすれば、60歳代以上でも「陳腐化」の影響は受けているはず。40歳代なら、生まれたときからである。周辺で人に愛着がもてなくなる。当然、今の子どもは、その真っ只中だ。こういうなかで人間関係が使い捨てになることが起きていないだろうか? いや、「起きていないだろうか」どころではない。どんどん起きている。友人関係も使い捨て、夫婦関係も使い捨て、親子関係はまだそうでもないが、一部では使い捨てられている。つまり陳腐化の影響で人も物と同じようになっているのである。もちろん、個々のケースでは正当な理由があるだろうが、全体的に見れば、子育ての外注も離婚も企業の雇用も「使い捨て」現象である。
最近、子どもが事件を起こした親のコメントを聞くが、なんだか全然心がこもった言葉が聴かれない。これも「修理するより新しくしたほうがいい」という気持ちの表れなのだろうか。もちろん、罪を犯した子が親を思う様子などはまったくない。陳腐化が進むと愛着や思い入れを持たなくなるが、人間というものは、やっかいなもので孤立すればするほど逆に愛着や大切にされたいという気持ちが強まる。だから、どんなわけのわからない関係でもケータイでつながりたいのである。愛着をもたれないことや大切にされない恨みもまた、その裏にはある。中高校生のケータイ依存もその表れだが、そういう依存自体が人間関係の「陳腐化」を進めていることなど子どもにはわかっていない。そこには倫理も決まりもない。そういう中にわれわれは置かれている。


(ニュース一部閲覧2008年6月号)
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